第一章はじめに2

 

こうした経験…といってもまだこの頃は教科書に毛の生えたような、せいぜい図書館中を渉漁する程度の勉強しかしていませんでした。


歴史好きに本腰が入ったのは高校時代、当時流行りだったコーエー歴史シミュレーションゲーム信長の野望をするようになってからでしょうか。


嵌まったことに昂じて、ガイドブックを自作してみようと考えたのですが、登場する各武将について、例えば前田利家とか、全く書けない、つまり知っているようで知らない、知ったかぶりか知ってるつもりになっていたことに気付き、大いに考えさせられました。


とまあ、様々なことが相俟っていくなかで、母親から冒頭の言葉を聞いたのです。


ペロー版「眠り姫」の王子は、百年眠らされた城の存在を聞いた時、忽然と情熱が沸き上がるのを自ら感じ、この問題は自分自身が決着をつけようと決意したとありますが、おいらもそのまま立ち消えた宿題を自らの手で解決しようと立志しました。


ある先祖の法事をきっかけに、菩提寺の過去帖の写しを得たのが平成9年(1997)の春でした。


それを基に、母方先祖の伝記を書こうと思いつき、幾度となく原稿に起こしていきましたが、結局未完のまま今を迎えていました。


その時強烈に意識した人物が、叔父御が事あるごとに話していた”末永能登守”という人物でした。


いわく、葛西氏の家臣、四家老の筆頭にして主君暗殺を企てた謀叛人。

葛西氏瓦解時には外交担当として伊達氏などとの間に築いたコネクションを駆使して征服者からの虐殺を免れたといいます。


当時購入した新人物往来社の「戦国人名事典」にも載っているこの人物、主君葛西宗清の暗殺を企んだ年が偶然にも平成11年(1999)で500周年を迎えると知り、俄然興味が沸いて来たものでした。


これまでにも葛西氏関連のセミナーは宮城県内の郷土史家を中心に20世紀末には盛んに行われていて、叔父御もよくそれに参加していました。


講師の方に名刺を出すと驚かれ、その講師いわく、末永氏には未知の部分が多いこと、そして石巻渡波に末永姓が多いことにも触れ、何かわかりましたら教えて欲しいと言われたのこと。


3に続きます。

第一章はじめに1

 

 

菩提寺の過去帖を見せて貰えれば末永の先祖がわかるかもしれないナァ」


今にして思えば全てはこの一言から始まりました。


一家の大黒柱を喪い、収入を絶たれた遺族には苦難の日々が続きました。


未亡人であった祖母は今住んでいる家を下宿として開放することを思い立ち、長男であった伯父は東京でそのまま苦学を強いられ、故郷を離れて就職する道を撰びました。


長女であった母は得意の英語力をつけたいと上智かどこかを志望し、将来は旅客機の添乗員か声優を夢見ていましたが、祖父の早世によって断念せざるを得ず、そのまま地元に就職する道を撰びました。


次男、叔父御は極めて文化的かつタレント性の強い性分でした。末永という家の血と、先祖代々住んで来た石巻の水がそうさせたのかは叔父御自身は勿論、おいらもわかりませんが、一家が抱える苦労と、己の生命を鑑みた時、不意に浮かんで出た言葉でした。


しかし、企画は持ち上がったものの、叔父御自身の進学や母の就職が相次ぎ、実現しないまま話は立ち消えて、そのまま母の脳裏に僅かに残っていたのでした。

 


自分は一体何者なのか?どこから来てどこへ行くのか?そうした疑問は物心ついた頃から常においらをさいなんで来ました。


小学校三年の時に放映された「まんが日本史」。偶然出会ったこのテレビ番組こそがおいらを無類の歴史狂に成さしめた原点でした。


そこでまずおいらの眼に飛び込んだのは、足利義持という将軍の、微妙に長い揉み上げでした。


要は室町時代から見たわけですが、この偏屈で40代始めで亡くなった、特に何でもない人物の姿に誘われるままに、気付けは将軍歴代を反故紙に書き留め、そのまま幕末まで見続けたものでした。


その話は番組の最終回と共に終わる筈でしたが、小学校六年で日本史の授業が始まるかという所へ大河ドラマで独眼龍政宗を放映したもんですから毎週番組に釘付け。


一方学校では日本史のグループ発表の課題があり、しかし、グループのメンバーと反りが合わなかったためにグループそのものからのけ者にされ、恥をかかされる一件があり、見返してやる、とのルサンチマン根性が沸いて来たものでした。


2に続きます。